能を読む
2025/06/22
能 融(青涼能を終えて)
「月のみ満てる塩竃の。うら淋しくも荒れ果つる」(謡曲『融』より)秋、都を訪れた旅僧は、六条河原院の旧跡で汐汲みを名乗る老人と出会います。老人は融大臣が造った六条河原院について物語り、東北の塩竃の浦を模した庭の景色を愛で、昔を懐かしみ涙を流し、見える名所の山々を教えます。会話も弾み仲良くなる二人ですが、やがて老人は僧に別れを告げ、塩焼きの為の水を桶で汲んだかと思いきや、そのまま消えていきます。老人は融の亡霊だったのです。その夜、その場に野宿する僧の前に若かりし頃の融大臣が現れます。昔に帰ったかのように庭の池は海水を湛え、雅やかな夜遊の音楽の中、融自ら舞い遊び、月を愛でる歌を謡い上げます。星や春霞に見えにくくなる月、船や釣り針、弓に喩えられる三日月、月が地に下りてくることはなく、水が空に昇ることもなく、鳥も魚も池にあり…そんな情景を楽しむも気づけば夜明けとなり、融の霊は沈む月と共に消えていったのでした。
源融(822~895年)は実在の人物です。百人一首に「陸奥のしのぶもぢ摺り…」を詠んだ人として伝わっています。平安時代初期の人で、辞書などには、嵯峨天皇の皇子に生まれ、臣籍降下されて源性を賜った、とか左大臣(首相に相当)まで上り詰めた、とか皇位継承を望むも藤原氏に阻まれた、とか様々記載がありますが、この人の最も有名な点は「六条河原院」という屋敷を京都の六条、賀茂川のほとりに構えたことです。源氏物語の主人公、光源氏の建てた「六条院」は、これをモデルにしており、そもそも光源氏の元ネタの一人が源融だと言われています。その屋敷たるや凄いもので、庭の壮大な池に大阪湾から毎日汲み運ばせた海水を湛え、日本三大名勝に数えられる東北の松島「千賀の塩竃」の景色を写します。歌枕「籬が島」を模した所へ船で向かい酒盛りをしたり、海水を汲ませて火に焚いて塩造りの煙を眺めて楽しんだり、そんな中で貴族達が集い、宴を催していました。しかし、融の死後、この屋敷は誰も維持できず廃墟と化し、紀貫之が「塩焼きの煙が絶えて淋しい」という和歌を残したり、河原院で鬼や幽霊が出たり、そんな説話が数多く残っています。
能「融」の作られた時代は室町の頃、かつて栄えた河原院も今や旧跡、おそらく屋敷も残っておらず昔の庭の名残が残るのみでしょう。誰一人居なくなって、それでも自分で汐を汲んで塩焼きの風流を楽しみ、山々の景色や月を愛で……本当にこの庭が好きだったのだろうと思います。
前半は池が「干汐」となって雨の残りの水溜りしかない、満つるものは月の光のみ…と語られます。そんな中、老人は最後、海水を汲もうと桶を投げ入れますが、水などあるはずもなくカランと音がするのみ、しかし、老人は恍惚に桶内の水に月が映っている、と眺めます。彼だけが昔に帰っているのです。
後半になると融は盛りの頃の貴族の姿で現れます。「古に帰る波の。満つ塩竃の」と謡い、池には滔々と海水が満ちています。今度は僧にもそれが見えている、屋敷も昔のままで貴族が集まり音楽を奏で、月の下の酒宴の中心では屋敷主の融自ら舞を舞う、そんな光景が目の前に広がっているのでしょう。それも夜明けと共に失われていく――そんな僧と融だけの一夜限りの夢を覗いていただければと思います。
令和7年6月22日 青涼能「融」に寄せて 上田顕崇
2025/05/01
大阪万博2025 能 高砂上演
2025年5月1日、大阪万博に夙川能舞台瓦照苑として、株式会社テックマートさんと共に参加して参りました。兄・上田宜照の解説の後、能 高砂の一部を上演。私はシテを勤めさせて頂きました。たくさんの方のご観覧、本当に有難う御座いました。